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『うつわ』は、UPHYCAの巫女にとって重要なシンボルのひとつである。

世界には「力の源」があまねく流れ漂っている。

そこには全てがあると言っても良いが、それらは決して目には見えず触ることもできない。

力の源は常に動き続けている。

力が止まり像を結んで初めて「こちら側」の私たちはそれに気付くことができる。

蕩々と流れる源にそっと両手を浸し、掌におさまるだけの水を慎ましく掬ぶ。

これが原初の『うつわ』の情景である。

水を汲む桶、酒を注ぐ杯、食事をつぐ碗。

『うつわ』にも様々な型と役割があれど、宿すものなくしては、どれも等しくただのがらんどうである。がらんどうは虚しげだが、がらんどうであるからこそ、どんなものも宿すことができる可能性に満ちている。

巫女とは『うつわ』そのものである。

『はじめの女神の語るすべ』では、この世に散らばり生まれては消える美しい物語を憶え語るため、はじめのひとが生まれた。ひとは言葉を使い源からひと掬いをとりあげ留める。古より賢い女、魔女、シャーマンと呼ばれた人々は毒と薬、歌と呪文を掬いあげた。

UPHYCAの巫女は皆『よきうつわ』であるため、いかなるときも尽力することを求められる。

『奔放の巫女』のイニシエーションに向け整えられる火の器は、女神より受けた雷を宿し、わたしたちの中に火を顕現させるための『うつわ』、つまり、がらんどうの『場』を象徴している。

しぐさのうつわは、原初の『うつわ』の情景そのものである。

子宮はUPHYCAの巫女が生まれながらに『うつわ』である証であり、UPHYCAが肉体的に女性として生まれて来たもののみのグループである理由である。実際の妊娠を望むか否か、可能か不可能か、それらは関係がない。

性的嗜好も、性自認も、関係ない。

望む望まぬに関わらず子宮という器官を持ち、それぞれにそれと付き合い、他者から「女」と呼ばれながら今日まで生きてきたという出来事それ自体が、ひとつの巫女修行である。

『よきうつわ』たるよう努めるとはつまり、肉体を健康に維持することであり、宿した命を育む良き心をもった存在でありつづける努力を惜しまない、ということである。

そのためには、まず自分を愛する術を知らねばならない。